เข้าสู่ระบบ狭い路地を入った先に、古い洋館を改装したような店があった。
天井が高くて、木のテーブルが等間隔に並んでいる。窓の外には、青々とした葉桜が風に揺れていた。
三週間前、彼と初めて会った日に散り始めていた花が、今はもう緑に変わっていた。
窓際の席に座ると、ウェイターがメニューを差し出した。柔らかい光がテーブルに落ちて、店内には焼き菓子の匂いがかすかに漂っていた。
コーヒーを頼もうとした瞬間、黒瀬さんが先に口を開いた。
「あなた、本当は甘いものが好きでしょう」
「……え」
「最初にお会いした時、確認もせずブラックに決めてしまいましたが」
手の中のメニューを、思わず取り落としそうになった。
あの日、姉の「ブラック派」という設定を必死に守っていたのに、こちらが口を開く前に決まってしまった。それをこの人は覚えていて、しかも自分が決めたことだったと認識していた。
「なぜ、わかったんですか」
「……なんとなく」
黒瀬さんは、それきり
姉の真帆が訪ねてきてから、二日後のことだった。あの日以来、仕事にも、以前より少しだけ集中できるようになっていた。姉の言葉が、想像していた以上に、胸の支えになっていたのだと思う。◇その日の午後。柊さんから、電話がかかってきた。『澄川奈緒さんが、最初にあなたのことを知った経緯がわかった』その一言に、指先がわずかに冷たくなった。仕事中だったこともあり、周囲に聞こえないよう、廊下の隅に移動しながら電話を続けた。『取締役会の文書の件とは、別のルートだ』「別の……?」『文書自体は、伏見が持ち込んだもので間違いない。ただ、奈緒さんが、そもそもあなたに接触するきっかけになった情報──お見合いの経緯や、あなたと真帆さんの関係──それは、別の人間から出ていた』心臓が、大きく音を立てた。「誰、ですか」『雅人という男だ。真帆さんとの関係を通じて得た情報を、澄川さんに渡していたようだ』──雅人。その名前を聞いた瞬間、脳裏で雷が落ちたような衝撃が走り、幾つもの記憶が一度に繋がった。実家に帰った、五月の日曜日。母から聞いた、『真帆の元カレが、黒瀬グループの取引先に勤めている』という話。その直後、駅のホームでスマホが震え、初めて『澄川奈緒』からメッセージが届いた。……あの時、ゾワリと立った鳥肌の意味は、これだったんだ。「……その人、姉の元カレです」『知っていたのか』「確信はなかったです。でも……五月に奈緒さんから突然連絡が来た時から、ずっと嫌な予感が引っかかっていました」まさか、あの男が奈緒さんと裏で繋がっていたなんて。「でも、なぜその人が奈緒さんと繋がるんですか?ただの取引先の社員なのに」『あの男は社内での立場や夜会の人脈を使って、以前からうちの噂を追っていたらしい。澄川家に自分を売り込むための「ネタ」として、真帆さんから聞いた西園寺家の内部事情を差し出したようだ』「そんな……」
【真帆side】数日前。柚葉と電話で話した時、あの子の近況を少しだけ聞いた。柊さんのお父さんのこと、縁談のこと、柊さんに直接気持ちをぶつけたこと。あの子は「もう、大丈夫」と、いつも通りの調子で言っていた。でも、声の端に、まだ何かが引っかかっているような響きがあった。あたしには、それが分かった。昔、同じような迷い方をしていたから。「もう大丈夫」と言いながら、本当はまだ、自分の存在が誰かの重荷になっていないか、確かめきれずにいる。あの声には、そういう気配があった。伝えたいことがある。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。翌日。コートを羽織って、柚葉のアパートへ向かった。飾った言葉より、思いついたことをそのままぶつける方が、柚葉には伝わる気がした。◇【柚葉side】インターホンが鳴って扉を開けると、姉が立っていた。「お姉ちゃん、急にどうしたの」「話したいことがあって」姉は、靴を脱ぐのももどかしそうに、部屋に上がり込んできた。ソファに座るなり、まっすぐこちらを見た。「あんた、この間の電話の時、声がちょっと変だったわよ」その一言に、心臓が小さく跳ねた。「もう、平気だよ。柊さんにも、ちゃんと話したから」「知ってる。だから、来た」姉が少し照れたように、視線を落とした。「あんたが、ちゃんと自分の言葉で本人にぶつけたって聞いて。……それ、簡単なことじゃないから」意外な言葉だった。責められる覚悟をしていたわけではなかったけれど、こんな風に、真正面から認められるとは思っていなかった。「あたしはずっと、選ばれることばかり考えてた」姉が、自嘲気味に視線を落とした。「顔のこと、家柄のこと。誰かに選んでもらうために、自分を作り続けてきた。そのくせ、選ばれなかった時のことばかり怖がって……昔のあたしは、自分から誰かを選んで向き合うってことを、一度もしてこなかった」その告白めい
【柊side】城島から聞いた資金繰りの詳細は、父が語っていたよりも深刻だった。地方ホテル事業は、すでに借入の返済に窮しており、このままでは年内にも資金が尽きる。父はそれを、あえて曖昧にぼかして伝えていたのだと分かった。数日後、父が再び連絡を寄越してきた。今度は電話ではなく、正式な書面での要請だった。支援を求める内容と併せて、あの縁談の話が改めて明記されていた。『お前が頑固なせいで、関係のない人間が困るんだぞ』書面を読み終えた後、父の声が耳の奥で嫌に鮮明に蘇った。ホテル事業には、祖父の代から続く取引先も関わっている。父はそれを盾に、遠回しに脅しているつもりなのだろう。これまでの父のやり方を思えば、驚くには値しなかった。それでも、こういう形で他人を巻き込もうとする姿勢に、改めて苛立ちが募った。◇翌日、俺は父を呼び出した。「困る人間がいるなら、俺が別の形で支援する」表情を変えずに、そう告げた。「父さんの口利きは、必要ない」父は、しばらく黙っていた。それから、諦めたように小さく頷いた。少なくとも、この場での縁談の話は、これで一旦は消えたはずだった。けれど、根本的な何かが解決したわけではなかった。父が抱えている過去も、俺が抱えている感情も、まだ何も片付いていない。◇【柚葉side】その夜。柊さんから、事の経緯を聞いた。支援の話、縁談の話、そして柊さんがそれをどう退けたか。淡々と語る柊さんの様子に、ひとまず安堵した。声にも表情にも、追い詰められている気配はなかった。それでも、この一件がまだ終わっていないことは、話を聞いていれば分かった。「これで、縁談の件は一旦収まったんですか」「表向きは。ただ、父が完全に諦めたとは思っていない」その言葉に、まだ何かが燻り続けているのだと理解した。話を聞き終えた瞬間、頭の中で、別の考えが静かに立ち上がってきた。もし、
模型の部屋で見た、あの一瞬の陰り。『大丈夫だ』という誰にも向けていないような一言が、それから何日も私の頭の片隅に残り続けていた。仕事をしていても、友人と話していても、ふとした瞬間に、あの横顔が蘇った。柊さんは何も変わらない様子で日々を過ごしていたけれど、その分だけ、余計に気になった。このまま、聞かないフリを続けることもできる。触れずにいれば、今の穏やかな関係は、そのまま続いていくだろう。でも、それでは、いつか本当に大切なことを、伝え合えない関係のままになってしまう気がした。◇夜、柊さんの部屋を訪ねた。「話してください。全部でなくていいから」柊さんが、こちらを見た。何を、とは聞かなかった。何のことか、もう分かっているようだった。長い沈黙が流れた。柊さんは、答えを探しているというより、話すか話さないか、その一線をずっと行き来しているように見えた。窓の外で、夜風が木の葉を揺らす音がした。時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。どれくらい、そうしていただろう。柊さんが、指先でグラスの縁をなぞりながら、ようやく口を開いた。「父を、恨んでいるわけじゃない」やがて、柊さんが口を開いた。「ただ──信じられなくなっただけだ」「信じられない、というのは」震える声で、そっと尋ねた。柊さんが、視線を落とした。膝の上で組んだ手に、わずかに力がこもるのが見えた。「大切なものを、簡単に手放す人間を──どう信じればいいのか、わからない」その一言に、これまで見えなかった柊さんの傷の形が、初めてはっきりと見えた気がした。母の最期に立ち会えなかった父。会社を離れることになった、その原因。誠一郎さんが、今も許していないという過去。すべてが、この一言に集約されていた。十七歳という若さで母を失い、父の不在を見せつけられ、それでも人前では弱さを見せなかった。この人の中で、その時に固まってしまった何かが、今もまだ、そのままの形で残っているのか
十一月最初の日曜日。柊さんから連絡がないことを、珍しく感じていた。いつもなら、少なくとも一日一回は、業務連絡でも他愛のない一言でも、何かしらメッセージが届く人だった。心配になって、アポなしで部屋を訪ねてみることにした。エントランスで少し迷ったけれど、こういう時こそ、遠慮せずに行くべきだと自分に言い聞かせた。インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。柊さんは、いつものスーツ姿ではなく、シャツの袖をまくった、部屋着に近い格好だった。「珍しいですね、連絡なしなんて」「悪い。集中していて、気づかなかった」招き入れられた部屋の奥、書斎の一角に、小さな作業台が広げられていた。そこに、精巧な建築模型があった。「これ……」「前に、話しただろう。子どもの頃からの癖が、抜けていないと」大阪への出張の新幹線の中で聞いた、あの話だった。『今度、見せてください』『気が向いたら』──そんなやり取りを、覚えていてくれたのだと分かって、胸が温かくなった。「見てもいいですか」「もう見ているだろう」素っ気ない返しだったけれど、手は止まらなかった。細いピンセットで、小さな窓枠を、慎重に貼り付けている。隣に座って、その手元をじっと見つめた。木の削りかすの香り、カッターの小さな音、集中した横顔。仕事の時とは違う、静かな熱を持った表情だった。「これは、何の建物ですか」「決めていない。ただ、手を動かしていると、何も考えずに済む」あの新幹線の中で聞いた答えと、同じだった。あの時よりも、今の方が、その言葉の意味が少しだけ分かる気がした。しばらく、二人で無言のまま、模型作りを見守った。時折、柊さんが「これを持っていてくれ」と、小さな部材を渡してくる。手伝っているというより、ただ隣にいることを許されている、そんな時間だった。「集中してる時の柊さんって、仕事の時とも、私といる時とも、また違いますね」
コンペのフォローアップで本社を訪れたのは、それから数日後のことだった。打ち合わせを終え、廊下を歩いていると、前方から見覚えのある男性が歩いてきた。先日、エレベーターホールですれ違った、あの人だった。隆之さんが、足を止めた。値踏みするような目で、上から下まで、ゆっくりとこちらを見た。「君が、柊の……」「西園寺柚葉と申します」深く頭を下げると、隆之さんが鼻を鳴らすように小さく息を吐いた。「ふうん」それだけだった。踵を返しかけて、でも一瞬だけ、足が止まった。何かを言いかけたような、迷うような間があった。結局、何も言わずに、隆之さんは去っていった。その一瞬の迷いが、なぜか記憶に残った。冷たいだけの人には見えなかった。むしろ、何かにずっと蓋をしている人のような、そんな気配があった。短いやり取りだったのに、体の芯から冷えるような感覚が残った。歓迎されていない、というより、そもそも人として見られていない、そんな視線だった。それでも、あの一瞬の迷いだけが、少しだけ引っかかっていた。◇その夜。柊さんの部屋で、思い切って伝えた。「今日、お父様にお会いしました」「そうか」短い返事だった。言葉は、そこで途切れた。「お父様のこと、話してくれないんですか」「話すことがない」その言い方が、初めて私との間に、壁を作られたのだと、はっきりと悟った。これまで、どんな話題でも、たとえ答えづらいことでも、柊さんは時間がかかっても、最終的に自分の言葉で向き合ってくれた。けれど、父親のことだけは違った。「柊さん」柊さんは、何も言わなかった。ただ、窓の外に視線を向けたまま、長い沈黙が続いた。これ以上、聞くのはやめた。ただ、心の中に、小さな棘のようなものが残った。この壁を、今すぐに崩す必要はない。でも、いつか崩れる日まで、隣にいようと思っ
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。
それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。